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そのすべての核心にあるもの、No.1:神の聖さと義と公正さ
金曜日, 8月 22, 2014

そのすべての核心にあるもの、No.1:神の聖さと義と公正さ

 神様は、他のどんな存在とも違います。神様だけが、創造されていない無限の存在であり、他の全てのものは、創造された、限界がある存在です。神様が他と異なるこの違いのことを、聖書では、「聖さ」と表現しています。

 聖さは、神様の神聖さを表しています。神様の聖さが、神様と人間の本質的な違いです。神様だけが神であり、神様のような者は他にいません。神様は崇拝に値する方です。神様は創造主であり、人間は被造物です。神様はあらゆる点で人間よりも優れています。神聖な方なのです。

 聖さは、神様の「道徳的な特性」としても見られています。道徳的に見て神様は完璧な方であり、そういう意味でも、罪深い人間とは完全に別の存在です。

 神様の聖さは、限りなく聖なるものです。最高度の聖さなのです。このような聖さは他●●ほか●●に存在しません。これは、神様の聖さだけではなく、他のすべての神の特性についても言えます。神の愛も、知恵も、知識も、力も、神様の特性のすべてが、最上級のものなのです。それと比べられるものなど、何もありません。私達人間は神様のかたちに造られているため、このような特性を持ち合わせてはいるものの、神様の高度で無限の特性とは、まるで比べ物になりません。神様は純粋な愛であり、純粋な力です。神様だけが、「聖なる、聖なる、聖なる」方なのです。

 主のように聖なる方はなく、あなたに並ぶ者はいません。私たちの神のような岩はほかにありません。(聖書協会共同訳聖書、サムエル記上2:2)

 神様の特性の中でも、神の聖さと関係の深いものは、神の義です。義とは、性格が真っすぐなこと、善良であること、美徳、道徳的な正しさです。神の義には、神の公正さも含まれます。

 神の義とは、神の存在、神の性質と性格が常に義である、つまり善であり、正しく、公正だということです。神御自身が、何が正しいかについての究極の基準なのです。神様の内には、少しの不正もありません。神様こそ義の基準であり、必ず正しいことを行われるからです。神様こそが、完全に高潔で、善良で、正しい方なのです。

 わたしは主、正義を語り、公正を告げる者。(新改訳聖書、イザヤ書45:19)

 主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である。(口語訳聖書、申命記32:4)

 義と公正は、あなたの王座の基。恵みとまことは、御前に先立ちます。(新改訳聖書、詩篇89:14)

 神様は本質的に義なので、私達との関わり方も含め、すべての面で、公平で公正です。神様は聖なる方なので、罪を容認することはできません。また、義なる方なので、それぞれの人が受けるにふさわしい扱いをする必要があります。神様は、神様の御心や御言葉に沿った暮らし方をする、正しい者に報いて下さいます。それと同様に、人が罪を犯すと罰をお与えになります。報酬も罰もないとしたら、神様は不公平であり、よって不義な方ということになってしまいますが、それはあり得ません。不義は、神の性質や本質に反するからです。

 神様は、性質においても行動においても、道徳的に完璧な方です。神様は純粋で義なる方であり、邪悪な願望や動機、思い、言葉、行いは一切ありません。永遠に変わることのない聖なる方なのです。どんな不純なものにも全く汚されることのない、神聖な清さを持っています。このように、神様は人間の罪深さからは、かけ離れた存在なのです。

 旧約聖書では、イスラエル人は、祭司も一般民も、数々の清めの儀式を行うように教えられていました。(レビ記)体でも心でも、人を汚したり不浄にするものは何でも、人が神様に近づいたり、その幕屋や神殿など神様の住まわれる場所に近づくのを妨げました。そこで神様は、自分達を清めるために、こうした儀式を行うようにと言われたのです。これは、聖なる方が、聖くないあらゆるものから分け隔てられていることを示すものでした。

 神様は純粋な聖さそのものなので、罪と交わることはできません。それは、神様の本質そのものに反することだからです。

 あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。(新共同訳聖書、ハバクク書1:13)

 あなたは不正を喜ぶ神ではなく、あなたのもとに悪がとどまることはありません。(聖書協会共同訳聖書、詩編5:5)

 神は断じて悪を行うことなく、全能者は断じて不義を行うことはない。(口語訳聖書、ヨブ記34:10)

 だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。(口語訳聖書、ヤコブの手紙1:13)

 神様は、元々聖なる方なので、罪を大目に見ることができません。ところが、人は誰でも罪を犯します。神様の公正さと正義は完璧なので、罪に対しては、その報いや罰があるし、また、あるべきです。けれども、神様はまた、この上なく愛と憐れみに満ちた方でもあるので、あがないの計画を作られました。それには、イエスが受肉し、罪のない人生を送り、最後には人類の罪のために十字架で命を捧げるという、犠牲を要しました。そのすべてが、神様の公正さと正義を満たし、神様と、イエスを受け入れる人との間に、和解をもたらすのです。神様は、御自身の被造物である私達への愛から、このようなことをされたのでした。

 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(口語訳聖書、ヨハネの第一の手紙4:10)

 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(口語訳聖書、ヨハネによる福音書3:16)

神様が公正で正しい方であると分かれば、時には理解できないことがあっても、神様がして下さることは常に正しいと分かり、神様を頼りにできるようになるでしょう。神様はすべてのことを完全に理解しておられ、また私達を愛しておられるので、私達はどんな状況にあっても、安心して神様に頼れるのです。

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