ベンジャミンの秘密
丘の向こう側から太陽がゆっくりと昇って来ます。金色の光が放たれると、遠くに見えるガリラヤ湖の穏やかな湖面がキラキラと輝き始めました。窓から日光が差し込んでくると、ベンジャミンは目を覚まし、毛布を振り払って窓際に向かいました。彼は明るい光を浴びて、目をパチパチさせました。
ベンジャミンは、眼下の村に目をやりました。家々の平らな屋根が丘の斜面に点々と広がり、ふもとを通っている町の大通りまで続いています。兵隊達が会堂を過ぎ、町の広場に向かって行進しています。今日は、市場が開く日。遠くの国々から品々を売りにやって来る商人達や、自分達が行き巡って来た遠方の土産話をしながらエルサレムに向かう旅人達、果物や野菜を売る地元の村人達で、正午までには大通りが埋め尽くされることでしょう。そこからあまり遠くない浜では、漁師達が網を繕いながら、漁で遭遇した冒険話に夢中です。
「もう準備はできた?」 母親のケレンが台所からベンジャミンを呼びました。
「はい、お母さん。」
焼き立てパンの香りが、小さな家いっぱいに広がりました。ベンジャミンは服をパッと着ると、朝食を食べるために食卓に着きました。
カペナウムに住むたいていの人達と同じく、ベンジャミン一家も、質素な家で暮らしていました。家は、高い部分と低い部分から成っています。低い方には簡素な炉があり、そこが台所です。料理は全て、そこでします。油や小麦粉や水の入ったつぼ、それにナツメヤシ、オリーブ、いちじくの実が入ったつぼもあります。扉は家の裏に続いており、裏に出ると、屋上に上がる階段があります。
ベンジャミンの部屋は、家の高い部分のわきにあります。高い部分には一家の生活空間があり、食卓もあります。そこで食事をしたり、特別な行事で集まったりします。ベンジャミンが入って来ると、お母さんはちょうど、焼き立てパンのいっぱい入ったかごを食卓に置いていました。
「お父さんも、そろそろ牛乳を持って戻って来るはずよ。」
ベンジャミンは10歳で、羊飼いのお父さんのジョンが羊や山羊の世話をするのを、よく手伝っていました。お父さんの弟イーライも羊飼いで、ベンジャミンの叔父さんです。ベンジャミンは、大きくなったら自分もお父さんのような羊飼いになりたいと思っていました。
家畜の群れを守り、一家の必要を供給して下さることを神様に感謝する祈りをし、朝食を済ませると、ベンジャミンはそそくさと食卓を片付け始めました。お母さんと市場に行くのが待ちきれないのです。そのためには、まず家の雑用を済ませなくてはいけません。
ベンジャミンはパンくずを食卓からぬぐい落とし、床をはいて、階段から4段下の、家の低い部分まではき下ろしました。すると、お父さんといっしょに戻ってきて暖炉のそばに寝そべっていた牧羊犬達が飛び上がり、ベンジャミンがはき下ろしたパンくずをなめ始めました。
ジョンは羊の世話をするために出かける所でしたが、ケレンの耳に何かささやきました。するとケレンはうなずきました。
「ベンジャミン。今夜は、お父さんといっしょに羊の番をしてみたいかい? 夕食は、バターを塗ったパンとチーズのごちそうだ。たき火をしながら、ジャッカルが近付いて来ないように見張るのを手伝うんだよ。」
「本当、お父さん? 行っていいの?」
「ああ。お母さんも、いいってさ。」
「うわぁ、ありがとう、お母さん!」
「今日は、必ず昼寝をしておくのよ。今夜羊の番をする時、しっかり目を覚まして見張っていられるようにね。」 そう言って、お母さんは念を押しました。
「はい、お母さん。」
夜の羊の見張り番チームに加わるのは、ベンジャミンにとって、初めてのことです。たいていの羊飼い達はチームを組み、交代で群れの番をしていました。今夜は、お父さんと叔父さんのイーライが当番でした。
「ジェームスも、イーライ叔父さんといっしょに来るよ。」 家を出る時に、お父さんがそう言いました。
「ジェームスも来るの? 楽しみだなぁ!」 ジェームスとベンジャミンは従兄弟同士で、親友でもあります。ベンジャミンは、1日が早く過ぎればいいなぁと思いました。
まもなくベンジャミンは雑用をすべて終わらせ、お母さんといっしょに市場に出かけて行きました。市場では、あらゆる種類の果物や野菜、ナツメヤシ、オリーブ、いちじく、ぶどう、箱入りぶどう酒、魚、パン、羊毛、毛皮などが売られていて、出店の周りには人々がひしめいていました。
けれども、ベンジャミンが市場で特に好きだったのは、旅の商人達がみんな立ち止まる、大広場の近くでした。お母さんがここで何かを買ったことはありませんが、商人達が自分達のラクダや荷馬車やロバに積んでいる興味深いものを見るのは、楽しいものでした。
時には、今までに1度も見たことのない、変わった動物や色鮮やかな動物がいることもあります。また、華やかなローブやベール、色とりどりの宝石を散りばめた髪飾りや、宝石で飾られた大きなバックルや腰帯を売る商人や、ローマの神々や女神、皇帝などの小さな像を売る商人もいました。
辺りを見回すと、ローマ兵達があちこちに立っていて、何も問題が起きていないか確認していました。ベンジャミンは、このローマ兵達の責任者である百人隊長を何度か見かけたことがあります。百人隊長は時々市場にやって来るのですが、手の込んだヘルメットをかぶっているので、すぐに分かります。彼は優しそうな人で、この村のローマ人は、たいてい親切でした。
でも、以前からそうだった訳ではありません。ある日、イエスという名前の人が町に来てから、物事が変わったのです。人々は彼のことを、ナザレから来た預言者だと言っていました。彼は、大勢の病人をいやし、あらゆる種類の奇跡を行ったそうです。
また、百人隊長がイエスに会いに行ったという話もあります。イエスは、百人隊長の病気の部下をいやして下さったそうです。それ以来、その百人隊長は人が変わりました。前よりも親切になり、今はもっと陽気で、人々にも優しくなりました。彼の下で働いている部下達も、同様でした。
ベンジャミンがお母さんと収税所を通り過ぎると、ローマ兵の一隊がいました。彼らの会話で「イエス」という言葉が出てきたのが聞こえたので、何を話しているのだろうと思って、ベンジャミンはぶらりとそばに行ってみました。
「このイエスという人が収税所にやって来た時のレビの顔ったら、覚えてるかい?」
「ああ、覚えてるさ。全く、信じられなかったよ。まともな履物を買う金もない、見ず知らずの男がやって来て、『わたしについて来なさい!』って言ったら、レビのやつ、すぐさま立ち上がって、ついて行っちまうなんてな!」
「はは。バカなやつだ。今ごろ何をしているやら。今でも、あのイエスってやつといっしょに歩き回ってると思うかい? イエスはあらゆる種類の奇跡をしてるって話だが。あの百人隊長でさえ、部下をいやしてもらったって言うじゃないか!」
「そいつは、今でも時々この辺りに来るぜ。」
「そうだな。だが、たいていは大勢の人に囲まれてて、実際にそばで顔を見たことはないんだ。・・・」
「まぁ。そこにいたのね。」 ベンジャミンが振り返ると、お母さんがいました。「必要な物はもう買ったから、家に帰るわよ。」
ベンジャミンが昼寝から起きた時は、もう夕方近くになっていました。いつの間にか眠ってしまって、お父さんの羊を守っている夢を見ていたことには、自分でも驚きました。
まだ明るい太陽が空の高い位置にある内に、ベンジャミンは従兄弟のジェームスに会いに行きました。午後の時間には、二人はよくいっしょに遊びます。美しい丘をかけ回ったり、ゆるやかな斜面に点々と並んでいる家々をめぐって曲がりくねっている道を散歩したりするのです。丘のてっぺんまで行くと、羊飼い達や、牧羊犬がたくみに羊の群れをまとめる様子をながめたりします。羊達に穀物のエサをやったり、山羊の乳しぼりを手伝うこともあります。子羊たちがおたがいとじゃれ合ったり、かけ回ったり、飛びはね回ったり、草の茂った斜面に点々と並んでいる岩の上に登ったり、そこからすべり下りたりするのをながめるのも、楽しいものでした。
子羊達と遊びながら、ベンジャミンとジェームスは、その夜父親達と羊の番をすることについて話しました。二人は、たき火からたいまつに火をつけ、野生動物達を追い払うまねをしました。
「棒の扱いには気を付けろよ!」と、イーライ叔父さんが大声で言いました。二人はたいまつに見立てた棒を手に持って荒々しく振り回しながら、ジャッカルを追い払うまねをしていました。「ぼく達、ジャッカルを追い払ってるんだ!」 二人が口々に言いました。
「それはいいが、羊のそばでは振り回すなよ。ケガさせるといけないからな。」
「はーい!」 二人はそう返事すると、危険な捕食動物を追いかけるまねをしながら、丘のもっと高い所へ移動しました。
その日の夕方、太陽が地平線の向こう側にかくれ、湖の漁船も船着き場に戻るころには、ベンジャミンとお父さん、それにジェームスとイーライ叔父さんも、食事をするために腰を下ろしました。
ベンジャミンのお父さんが祈ります。「神様、今日も私達を守って下さったことを感謝します。私達の家族に何も悪い事が起こらず、今日もまた私達の必要な物をすべて与えて下さったことを感謝します。今から食べるこの食事を祝福して下さい。あなたの約束に従って、この食べ物を聖別して下さい。アァメン。」
「アァメン。」
今夜いっしょに羊の番をしに行くイーライ叔父さんとジェームスも、夕食に来ています。イーライ叔父さんとジョンはいつも、いっしょに羊の番をしている時に起こった冒険話を話してくれるので、食事も楽しくなります。
まもなく、出発の時間になりました。ベンジャミンとジェームスは、その夜羊の番をするための準備を万端に整えます。上着の上にマントも着て暖かいかっこうをし、ベルトをしっかりしめました。途中で拾い集める薪を束ねるためのロープも持って行きます。
牧羊犬はベンジャミンとジェームスのすぐ後ろで、ぶら下げている棒をつつこうとしながらついて来ます。丘を登って行く途中、棒の束もどんどん大きくなりました。目に付いた薪は全部拾って行くので、羊の群れがいる所に着いた時には、二人とも、ハーハーと息を切らせていました。辺りはもう暗くなり、一番星が空の低い位置に現れました。
羊飼い達のたき火用に石が積み上げられている所に来ると、ベンジャミンとジェームスは得意そうに薪の束を下ろしました。
「これだけあれば、今夜は暖かく過ごせるぞ。ジャッカルも近付かないだろう。」 そう言って、ベンジャミンのお父さんが二人をほめました。
イーライ叔父さんが、丘の上まで運んできたたいまつで、たき火に火をつけました。少年達は父親達といっしょに、羊の群れの間を歩き回りながら、1匹もいなくなっていないか確認した後、たき火の所に戻って来ました。
「二人とも、目を覚まして、しっかり見張るんだぞ。牧羊犬達は群れの外側から、羊達がみんな固まって無事でいるように見張っている。夜の間、私達は順番で見張りをするから、つかれたら、少し休んでもいいぞ。」
羊達はみんな身を寄せ合い、寝ずの番をしている牧羊犬達と見張りをしている羊飼い達の目に見守られながら、うとうとし始めました。辺りはし~んと静まり返っています。聞こえてくるのは、静けさの中で響くコオロギの鳴き声と、時折吹くそよ風でサラサラとゆれる枝々の音だけです。
ベンジャミンとジェームスは仰向けに寝っ転がって、星を見つめました。周りが暗くなったので、星々の輝きはいっそう明るさを増しています。
「お父さん、星のお話をしてよ。」
「うん、あのふしぎな星のお話が聞きたい。」と、ジェームスも言いました。
「分かったよ。」と、ジョン。彼はその話を、もう何度も少年達に話してあげています。少年達はその話が大好きなのです。
お父さんが話し始めました。「ある夜のこと。イーライ叔父さんと私がお前達くらいの年だったころだ。当時私達はベツレヘムのそばに住んでいて、父親らといっしょに羊の番をしていた。その夜は、ちょうど今夜みたいに、穏やかで静かな夜だった。
空は水晶のように澄み渡り、星々はまるで、夜空に散りばめられたダイヤモンドのように輝きを放っていた。まもなくすると、丘の斜面一帯がし~んと静まり返ったことに気が付いた。羊達はじっとしていて、風もなかった。コオロギさえ鳴き止んだんだ。私達は一体何が起きているんだろうと思って、牧羊犬達がいる方を見た。犬達は群れの周りでじっと立っていたけど、空を見上げていた。
一体何を見ているんだろうと、私達も空を見上げた。すると、私達にも見えたんだ。あの明るい星が。あんなにはっきりとした美しい星は、今までに見たことがなかった。あれは、何て言うのか・・・そうだな・・・魔法の星みたいだった! ものすごく明るかったんだ。私達はずいぶん長い間、その星を見つめていた。これはおかしな事なんだが、イーライも私も、その星が歌っているのが聞こえたと思ったよ。」
少年達は、じっと耳を傾けています。この話は以前に何度も聞きましたが、星空の下に寝転がっている今夜は、それがいっそう現実的に思えました。星を見上げていると、そのお話が実際に起こっているように思えてくるのです。突然、流れ星が空を照らし、あっという間に消えてしまいました。犬が何度かほえ、羊がちょっと動き、その後また元の静けさに戻りました。
ジョンが話を続けました。「それからしばらくして、非常にめずらしい旅人達がカペナウムを通った。私達が聞いたこともない、ずっと遠くの東の国から、ラクダと荷馬車から成る隊商がやって来たんだ。その隊商には、王達がいた。まぁ実際は、彼らは王じゃなくて、東の賢者だと言っていたんだがね。身なりは非常に立派だったよ。
物資の補給のために、彼らはここに何日か野宿した。イーライと私は、何が起こっているのか見に、しばしば彼らの野営地に行ったよ。彼らは、星について多くを語っていたが、特にこの明るい星は、どこかで王様が生まれたしるしだと言っていた。」
ベンジャミンとジェームスは話に耳を傾け、魔法にでもかかったかのようにうっとりしながら、頭上で輝いている星々を見ていました。柔らかい炎が何度か木炭の山から出たかと思うと、燃え尽きて下火になりました。ジェームスは薪を数本火に投げ込むと、また柔らかい草の上に仰向けになりました。
「イーライ叔父さんと私は、この人達の一人と1度話したことがあるんだが、私達が初めてその星を見た時、その星は歌を歌ってくれたんだって話をすると、熱心に聞いてくれてね。そして、この星の意味をもっと教えてくれたんだ。これは特別な星で、王が生まれたことを意味しているんだってね。彼らは、その王様を探しに来たそうだ。星が、彼らをこの地へ導いてくれたんだよ。そして、その王様を見つけたら、国へ帰って、その王様が誰かをみんなに教えてあげるそうだ。またその王様は、すごく特別な王様で、その王国は永遠に続き、彼はこの地上に平和をもたらして下さるんだそうだ。
もちろん、私達はみんな、すごく興奮したよ。賢者達が去った後、何日もの間、人々の間では、この特別な王様は一体誰だろうという話で持ち切りだった。この王様が、私達をローマの支配から解放してくれる救い主ではないかと思う人達もいた。」
そこでお父さんはだまりました。少年達は、この話の続きを、もう聞いて知っています。ヘロデ王が、ベツレヘム中の男の赤ちゃんを殺させたのです。この賢者たちは、2度と戻って来ませんでした。それからまもなくして、その星は消え、人々も、その王様について話さなくなりました。
ベンジャミンはうとうとしながら、この謎の王様が誰なのか分かったらなぁ、と思いました。もしかしたら、彼はいつか突然現れて、「私がベツレヘムで生まれたその王だよ!」なんて言うかもしれません。そうしたら、誰もが彼のことを知るようになるでしょう・・・
ベンジャミンが目を覚ますと、もう朝になっていました。太陽が、もう丘の上で輝いています。子羊達も、彼が寝ていたすぐそばの岩の周りで遊んでいます。(もう朝だなんて!) ベンジャミンは昇ってくる太陽の光がまぶしくて、目を細めました。
「やぁやぁ、ベンジャミン。よく眠れたかい?」と、お父さんが言いました。
「ぼく、すごくすてきな夢を見たよ。」とベンジャミン。「あのふしぎな星についての夢。その星を見たんだ。星が歌っているのも聞こえたよ。それだけじゃない。星が空で踊り始めたんだ!」
お父さんはくすくすと笑いました。「よく休めて良かったな。さあ、山羊の乳しぼりを手伝っておくれ。終わったら、母さんにも届けるんだ。」
おけがミルクでいっぱいになるのに大した時間はかかりませんでした。ベンジャミンは、曲がりくねった道を家に向かって下りて行きました。
「ただいま!」 ミルクの入ったおけを持って家に入ると、ベンジャミンは大きな声で言いました。
「ご苦労様。」 ケレンはそう言って、ベンジャミンから重いおけを受け取りました。ベンジャミンは一仕事終えて満足気にほほ笑みを浮かべながら、食卓のパンを思いっきりかじりました。
「お父さんのためにも、朝食を用意するわね。それを持って行ってくれる?」
「はーい。」 そう言って、ベンジャミンはパンを食べ終え、ミルクを飲みました。
「昨夜はどうだった?」 ケレンがベンジャミンにたずねました。
「すごく楽しかったよ。ジェームスとぼくは、薪を丘のてっぺんまで運んで行ったんだ。それから大きな火を起こして、羊の番をしながら、お父さんとイーライ叔父さんがお話をしてくれたんだ。」
「羊達は一晩中、無事だったのね?」
「うん、よく見張っていたからね!」
「それはおつかれ様。良かったわ。」 そう言いながら、ケレンはパンの上に自家製チーズのスライスをのせました。
「お母さん、もしかしたら、この奇跡をたくさん起こせるイエスという預言者が、お父さん達が子供だった時に会った旅人が話していた、王様なんだと思う?」
お母さんはちょっと考えました。「そうね、確かに彼は、ただの預言者じゃなくて、すごく特別な預言者みたいだものね。」
お母さんは、彼がカペナウムの数多くの丘の一つで話をしていた時に、話を聞きに行った時のことを思い出しました。大勢の人たちが彼について行ったので、イエスとはどんな人なのか、彼女も自分で見に行くことにしたのです。みんなが座ると、彼は、天の国が近づいているという話をし始めました。
みんな、おそい時間までそこにいましたが、夕食のために帰りかけている人達を見て、イエスはみんなに座るようにと言いました。その後一体何が起きたのか、彼女には全く訳が分からなかったのですが、突然、みんながパンと魚を回してきたのです。こんなにたくさんの食べ物が、いきなりどこから来たのか、誰も知りませんでした。後で聞いたことによると、一人の少年が5つのパンと2匹の魚をイエスにあげたということでした。でも、それだけでは、こんなに大勢の人たちのための魚とパンがどこから来たのか、話がつながりません。彼女はそれ以上おそくまでいることはできなかったので、一体何が起こったものかと頭をかしげながら、家へ帰ったのでした。
(もしかしたら、この人が救い主なのかも。) ケレンは、そんなことを考えていたことを思い出しました。
ケレンが用意した食べ物をベンジャミンに渡すと、ベンジャミンはさっと出かけて行きました。お父さんや羊達のいる所へ早く戻りたかったのです。
「はい、お父さん。お母さんが、朝食のパンとチーズを用意してくれたよ。」
「おお、ありがとう、ベンジャミン。ちょうどいい時に戻ってきてくれたよ。子羊が1匹いないようなんだ。今、私が群れを残していく訳にはいかないからな。私の代わりに、探してきてくれないか? あまり遠くには行ってないはずだ。もし見つからなかったら、そのまま戻って来るんだ。羊達を囲いに入れて、いっしょに探しに行こう。」
「はい、お父さん。」 いなくなった子羊を探すのを手伝ってほしいと頼まれて、ベンジャミンは興奮しました。探すのは苦になりません。木々が草むらや茂みに柔らかい影を落としている丘を歩き回るのが好きなのです。顔に暖かい日光を浴びると、とても心地良く感じました。遠くのガリラヤ湖では、小さな船が行ったり来たりしていて、日光がキラキラ反射しているのも見えます。
ベンジャミンが歩いていると、道のわきの石のそばに人々が集まって座っていました。
「君!」
その中の誰が自分を呼んだんだろうと、ベンジャミンは辺りを見回しました。
「そう、そこの君だ!」 また声がします。男の人が立ち上がって、ベンジャミンに手招きしました。
その人には、何か威厳が漂っていました。でも、目は、ベンジャミンが今まで見たどんな人の目よりも、優しそうです。ベンジャミンは近寄って、その人の前に立ちました。
「君の名は?」と、彼がたずねました。
「ベンジャミンです。父は、羊飼いのジョンです。」
「ベンジャミン、君の年は?」
「10歳です。」
「君も、お父さんと同じ羊飼いなのかい?」
「はい。それで今、群れからはぐれてしまった子羊を探してるところなんです。」
その人は、二人の会話をそばで見ていた友人達の方を向いて言いました。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをおつかわしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」*1*
ベンジャミンは、その人をじっと見ました。(もしかしたら、この人が・・・?)
「お話を聞きたいかい?」
「はい、ぼく、お話は大好きです。」
その人はベンジャミンに、そばに来て、座り心地の良い所に座るようにと招きました。彼はベンジャミンに、馬小屋や星の話や、彼が2歳の時に、遠くから贈り物を持ってやって来た賢者の話をしてくれました。また、一家でエジプトに逃げなくてはいけなかったことや、ヘロデが死んだ後ナザレに行ったことなどを話してくれました。
「あ、あなたが、預言されていた、す、救い主ですか?」 驚きで目を丸くしながら、ベンジャミンはささやきました。
「わたしの国はこの世のものではない。*2* わたしの国は、君みたいに、特別な人達の心の中にあるんだ。」
ベンジャミンには、その意味がよく分かりませんでした。でも、それは どうでもいいことでした。王様を見つけたのですから。ついに、彼らの救い主が来られたのです!
「もうお父さんの所へ帰ったほうがいいね。いなくなっていた子羊は、もう無事に群れに戻って、お母さん羊といっしょにいるよ。」 イエスが優しそうに言いました。
ベンジャミンは、どうしてそんなことが分かったんだろうと思いました。でも、どういう訳か、彼の言ったことは本当で、もう子羊を探さなくていいんだと分かりました。ベンジャミンは、お父さんが羊達を見ている丘へ走って行きました。
すると、お父さんが大きな声で言いました。「ああ、帰って来たね。もういいんだ。子羊は、自分で戻って来たよ。もう探さなくていいんだ。」
「うん、分かってる。知ってるんだ・・・」と、ベンジャミンは言いました。
脚注:
*1* 新共同訳聖書、ルカによる福音書 9:48
*2* 口語訳聖書、ヨハネによる福音書 18:36